椎の木湖とともに   大山 修一
 

第九話 バス釣り場の教訓

時として、”思惑”は外れてしまうものだ。

五・六年程前、私は、その頃有名人やトレンディ俳優などを巻き込んで流行っていた”バスフィッシング”に注目した。ちょうど知り合いの釣り堀が、そのバス釣場で繁盛し始めていたこともあって椎の木湖でもやってみようかという気になった。幸いなことに、釣り堀では勿論のこと、ゴルフ練習場の方の池にもバスは沢山いた。肉眼で認めることもできたし、釣り糸を垂れれば、その証拠に、短時間で沢山釣り上げることができた。これだけのバスがいるのだから、小規模な状態から始めれば、経営として充分に成り立つのではないかと考えた。自分ながらに、バスプロや釣り関連の方々、色々な分野の人々に相談し、情報を集めてみた。バス釣りは、若年層に人気があり、うまくいけば、将来性のある事業と思えたし、疑似餌で釣られるので、池が汚れないことが、私には大変魅力であった。

しかし、ネックもあった。バスは外来魚であるために、日本古来の魚の生態系を壊すことが危ぶまれて、多くの自治体が放流を禁止していた。埼玉県も、その例外ではなかった。初めは充分な量がいるのかも知れないが、いずれは足りなくなる時がやってくる。その時にどうするか、が問題であった。

私は試算した。どれほど小規模な投資で、バス釣堀を作り、運営することが可能か?場所としては、現ゴルフ練習場の奥のスペースを使うことができた。そこに網を張って、池の他の場所で釣ったバスも、そちらに移してみた。桟橋の建設は、へら釣場でのノウハウがあるので、それほど難しいものではない。人件費も、現行のお掃除のパートさんとゴルフ受付の従業員で賄える。こう考えていくと、私には、それほどの投資をかけずに、実現が可能に思えてきた。と同時に、その頃には、周囲の”是非作って”という愛好者の声に抗しきれない気持ちが、すくすくと芽生えてもいた。

芦ノ湖に放された数十匹から、バスの全ては始まっていた。そのバスたちが、旺盛な繁殖力で子孫を増やし、やがて、そのバスを釣った釣人たちが、その引きの強さに魅了され、各地の水場に持ち帰って放つようになった。そして、バスは現在では、日本各地に棲息することとなった。バスは海外から連れてこられて、必死に日本の環境に順応し、本能により、盛んに子孫を増やしていったに過ぎない。だが、結果として、他の日本の在来魚を滅亡させることとなり、すっかり疎まれる存在となってしまった。

しかし、その一方で、そのバスを釣りたい多くの人々がいる。

生態系を壊すからと、バスを駆逐することが最善なのか? 行政側の放流禁止の意図は理解するが、バス釣り愛好家にバス釣場を提供する釣堀に対しては、例外とすることはできないのだろうか? 正式のバス釣場が各地に存在すれば、バスをむやみに放流するような人々も少なくなるのではないだろうか?

こう考えた時に、私はとても、”バス釣堀”をバス釣りを愛する人々のために作りたくなってしまった。

私は、決断した。まず、3年間(このくらいの期間なら、椎の木湖に棲息するバスだけでも持ち堪えられると思った)営業するつもりで、やってみようと決めた。その内に規制が緩くなったら、などと楽観的な計画なども巡らせていたりもして。。。。。

しかし、しかし、しかし。 結果は、完敗に終わった!

営業できたのは、わずか2シーズン、2年間のみであった。初めのころは、釣れた時期もあったが、段々と釣れなくなってきてしまった。やはり、魚の絶対数が少なくなってしまったのだ。あれほどにいたバスが激減してしまった。

何故か? 私の考えの及ばなかった盲点がここにあった。

一箇所にバスを集めた事によって、すっかり鵜たちの餌食となってしまったのだ。バスは細長い魚であるため、鵜には最も飲み込み易いらしいのだ。追い散らしても、追い散らしても、次から次へと鵜たちは飛来してきた。相手は生死がかかっているのだから、私に勝目は全くなかった。

また、警備状態も甘かったに違いない。深夜に不法にバス釣場に侵入し、釣った人も結構いたらしい。一般道路やクラブハウスから一番離れた位置にあるため、人目につかずに出入りができたようだ。ゴルフ練習場が閉まってから、へら釣りのお客様や食堂の担当の者がやってくるまでに、それほどの時間がないので大丈夫と考えていたのが、大きな間違いだった。

全く釣れないのにお客様を入れる訳にはいかない。依然として反響はあったが、3年目よりは、完全に閉鎖とした。

現在も、ゴルフ練習場の奥にバス釣場の残骸が認められる。後々、何かの役に立たせることができるかも知れないが、いまは、私の教訓の遺物としてのみ存在している。

(メルマガ椎の木湖2002年11月号原文掲載)

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